生まれは九州の窓口と言える都市ですが、直ぐに田舎へ引っ越しましたので、ほぼ田舎ものです。5歳の頃、池で溺れ、ほどなく旅立つはずでしたが、偶然通りかかった女子高校生に助けられています。彼女は小児麻痺(ポリオ)で片足が不自由な人でした。
 高校3年の時、なぜか志望校を諦め、リハビリテーションの専門学校に進学します。当時は「リハビリって何?」と言うほど知名度の低い状況でした。
 29の時に勤めていた病院で妻と会います。彼女は交通事故で電柱に激突した患者であり看護師であり6歳年上の女性でした。私はこの29〜30歳の間に、家を建て、結婚し、職場を変わり、仕事の他に任意団体(地域での活動)を立ち上げ、そして奈那が生まれました。
 共働きだったため、奈那も次女も私の病院の託児所に預けていました。ですのでもっぱら私の昼休みは、子供達の食事・おむつ交換・散歩に占領されていました。
 平成14年に任意団体だった会をNPO法人に育て、平成16年に年を取ってから大学院へと通いました。仕事とNPOと大学院で人生を忙しくして・・・でも、それも今となっては後悔の種で、もっと家に居てあげればよかったと苦しくなります。
 そして、悪夢のような平成19年。私はこの年5月に理事達とうまくいかなくなり、15年間育て上げたNPO法人の理事長を退きました。人生的には少し楽になってきた矢先、同年10月16日、わき見運転のトラックにより奈那は旅立っていってしまいました。奈那はまだ15年しか育ってなかったのに。加害者は左目が義眼の男でした。
 それから現在まで別世界に居てなぜか生きています。仕事以外の人間関係は遮断してまして、心の引きこもりとでも言いましょうか。
 

papaのページ

平成21年9月18日
交通安全管理者講習

 パパの目標
ぱぱの目標
・その1 
奈那のホームページを作る。
  4月の月命日(平成20年4月18日)に公開。
 あれから6ヶ月。まだまだ早すぎる感もあるが、
 奈那の思いの炎を消さないためにも、書き残
....し,綴っていく。

 
進行中であります
ぱぱの目標
・その2
○○に交流の場を創る。
 交流の場:なな色cafe。人との交流を大切に   
 した奈那の意志を継ぎ、みんな気軽に集まれ
 る場所を創る。

 準備中であります
ぱぱの目標
・その3
2年後(平成21年)に宇佐高校で講演する。
 高校の同級生が卒業していく前に、校長先生
 が定年になる前に、高校のみんなに、お礼の
 意味をこめてお話させていただく。

 平成21年10月21日に遂行されました

平成21年10月21日
宇佐高校講演

パパの歴史
 昭和36年10月  北九州市戸畑区に生まれる
 昭和43年9月  大分県西国東郡真玉町にお引越し
 昭和55年4月  九州リハビリテーション大学校入学
 昭和58年4月  ○○第一病院就職
 平成2〜3年  職場が変わり、
 家を建て、
 結婚して、
 任意団体(地域リハビリネットワークの会)を旗揚げし、
 奈那が生まれる(平成3年12月17日)
 平成7年2月  寧々が生まれる
 平成11年5月  職場が変わる
 平成14年1月  地域リハビリネットワークの会をNPO法人化
 平成14年5月  現在の職場へ変わる
 平成16年4月  国際医療福祉大学大学院入学
 平成18年3月  同大学院修士課程卒業
 平成19年5月  地域リハビリネットワークの会理事長を辞任
 平成19年10月  奈那が事故で先立つ
平成22年4月 国際医療福祉大学大学院博士課程入学
平成25年3月 国際医療福祉大学大学院博士課程卒業
平成26年4月 特別養護老人ホーム むくの木 施設長
平成21年[八面山春に萌ゆ]。今年は奨励賞でした。
これくらいがお似合いのようです。
平成18年[春の川辺] 八面山スケッチ大会、奨励賞でした。
残念ながら、奈那と同じ大賞は取れませんでした。ハハハ。

平成20年[麦の色づく八面山] 奈那からのプレゼントか、
大賞をいただく事ができました。ありがとう。